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<院長のブログ>

<鎌倉殿の13人>

今年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。だいぶ昔の話で、あまり興味が沸かない方も多いかと思います。なにせ、平安時代から鎌倉時代の武士の世が出来上がる背景を描いていますので、今ひとつ分かりにくいのも事実ですね。ただ、私にとっては大変に重要な時代です(笑?)なぜかといえば、先祖が関東に移り住み、ここから当家がスタートした時代だからなのです。当時、関東は京の都からすれば遠く離れた得体の知れない土地でした。今以上に京都に暮らす公家や都人からしたら、まったく想像のつかない場所だったと思います。

その狭い都の中では、天皇に仕えながら少しでも暮らしを豊かにしていける公家(貴族)はほんの一握りでした。先祖は天皇の馬を管理し、選定し、年中行事の白馬の節会などを司る役職に就いていました。首馬主(しゅめのかみ)といい官位からすれば従四位下という、ぎりぎり京都御所の殿上に参ずることができる下級貴族でした。藤原氏の首馬主を併せて「首・藤」つまり、首藤(すとう)と呼ばれていました。そんな都での出世はそれ以上望めないと、多くの下級貴族たちと同様に先祖も新たな土地を荘園として開発し、収入を得る道を選んで関東の相模地方へ移ってきたのです。開発領主としての仕事は今でいう開拓民のようなもの。荒れ地を耕し、少しづつ農地を増やしながらの日々でした。

そんな時代、源氏と平氏が争い、世の中が二分されてしまうことに戸惑いながらも荘園とそこに暮らす民を安堵するために先祖は公家から武士へと変貌を遂げるしかなかったのでしょう。しかしながら、それまでのしがらみを断ち切るわけにもいかず、京とのパイプは残っていました。関東に移る以前から、源義家の正室を出し、代々の乳母家として付かず離れずの関係にあった当家は頼朝の鎌倉幕府樹立とともに彼を囲む13人の思惑や嫉妬に巻き込まれ、些細な出来事から京都と通じるスパイと思われ、頼朝にはすっかり嫌われていったのです。

執権が北条氏に変わり、先祖はもはや源氏との深い関係性もなくなって、西国にあった他の荘園領地へ下向しました。頼朝と一緒に数々の戦を闘った当家の大きな流れは、西国、東北と分散していったのです。歴史物では幕末の山内家(土佐家)だけをクローズアップしますが、じつは嫡流は備後へ下向した山内家であり、また東北へ留まった私の先祖家であることは、意外に知られていません。皆様のおうちにもそれぞれの歴史がお有りだと思います。先祖がいたからこそ、今の私たちが存在することを忙しい世の中では忘れがちです。

自分の家の歴史を長々と語るのもくすぐったいものですが、大河ドラマがとても身近に思えて今回は紹介してしまいました。放言、ご容赦いただきたくお願いいたします。