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<院長のブログ>

(写真:北鎌倉・明月院 悟りの窓)

 

<守るということ>

物事を守るというのは、ややもすれば保守的だと捉えられることが多い。

今は、ものやひとが溢れているせいか、捨てることこそ美徳で「断捨離」なることがまるで修行の極地に辿り付いたかのような印象を与えているのも面白い現象であろう。そもそも、断捨離は心の雑念や邪念を一切、払い捨てて「素白」な自分になることを意味しているのだが、現代では自分の周囲にあるしがらみや使わなくなったモノを捨てることでさっぱりしたいという欲求に突き動かされるからだと思う。

さて、そんな現代人の価値観が日本の低迷する経済と妙にリンクしてしまっているのか、国宝クラスの謂わば「お宝」とも言うべきモノが続々と海外へ流出していることをご存知だろうか?戦後にあった海外への骨董品や美術品の流出と似たような現象ではあるが、もしかするとそれ以上に日本という国のアイデンティティを自ら「捨ててしまう」ほどの品々も含まれているという。私の家でも過去に食いつなぐために大切な伝来の品々を売却してきた。他の名家といわれる公家や武家においても戦後の狂乱的な憎しみに満ちた「重課税」を払えず、先祖伝来の家宝を「売り立て」して食いつないできた。

たしかにそれらは一般の人々には何の関係もないモノかも知れないが、見方を変えるとモノを作るために職人たちが精緻な技と情熱を注いで作り上げた最上級の「工芸品」でもあるのだ。もっといえば、もし、その家を離れても国民の共有財産として残すべき意味のあるものも少なくない。それをなぜ、指をくわえて海外へ流出させてしまうのかといえば、それは政府行政機関における美術品・骨董品の保護や育成の概念が非常に低レベルだからなのであろう。例えば、わずか1000年程度しかない歴史の欧米諸国でさえ、歴史ある品々の保護や売買については日本以上に法制化されている。

数年来、当家においても平治の乱で討ち死にした京都・東山にある山内俊通公の供養塚を本来の菩提寺である北鎌倉・明月院へ移設しようとそている。しかしながら、そこにややこしい法律の壁がはだかり、遅遅として進まない。鎌倉市の文化財保護行政の低レベルな考え方は、まさに日本の文化財における考え方と一致するようなお粗末さを露呈している。つまり、担当の行政官は常に前例主義から抜けられずにいるのである。角度を変えて皆の共有財産とすればもっと日本の歴史が身近になるし、教科書以上に肌で学習できる機会をみすみす奪ってしまっている。

円安に乗じた日本の文化財の安売りが続けば、この国の存在価値や根拠も消されていくであろう。それをグローバルと呼ぶのだろうか?私にはただの破壊にしか映らないのだが……