<院長のブログ>

<流鏑馬神事>
11月3日文化の日(旧・明治節)に明治神宮で執り行われた流鏑馬神事に知己の方々と行ってまいりました。
流鏑馬は古くは鎌倉幕府、源頼朝がその定型をつくり、以来、武家のならいとしてずっと伝承されてきました。言うまでもなく、矢で射る的は「魔」であり、災いなすものが対象です。この災いを弓矢で射ることで穢れを祓うと言う意味が込められているものです。流鏑馬には2大流派があり、私は先祖の関係から鎌倉に本拠をおいて活動している大日本弓馬会をサポートしています。彼らは源氏の流れ、のちの武田一門が伝承してきた弓馬術にのっとり活動しています。
さて、明治神宮の本殿参拝を許された私たちは、これから流鏑馬を奉納する射手、馬たちと共に参道を歩いて正式参拝ののち、流鏑馬を観覧することになりました。私は鎌倉鶴岡八幡宮、京都上賀茂神社と彼らの神事を拝見していますが、いつも彼らの真摯な立ち振る舞い、謙虚な姿にいにしえの武士たちのひたむきな祈りが重なって映ります。自然災害や合戦などの人々を苦しめる災いというものに対して人ができる最大限の鎮魂と浄化、そして平和の希求を流鏑馬神事を通して視るような気がするのです。
今は、サラブレッド競走馬が後年の仕事としてこの流鏑馬に奉仕するということも多々あります。人馬一体の動きや疾走の間に馬たちにも馬の一生があり、こうして神事に参加できることもまた、一つの運命であり御神徳でしょう。三つの的をすべて射る上手は写真の射手、杉浦氏。ご奉仕の後、ねぎらいと歓談の中にも馬への深い愛情と気遣いがひしひしと伝わってきました。
刀剣も弓矢もけっして人殺しのためだけの武具ではありません。日々の精進で、おのれの精神修養と他者への思いやりなど、とても深い修練がなせる一つの文化的な行為があります。そんな視点で機会があれば流鏑馬神事をご覧いただけると、日本人が長い歴史のなかで培ってきた「心」という部分もわかるのではないかと思うのです。流鏑馬には勝ち負けはありません。勝っても奢らず、負けても腐らず。なぜなら、神さまがいつも天上から観ているからです。お天道様に恥ずかしくない弓を引こうという武士の魂が今もそこに観ることができます。