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<院長のブログ>

(写真:山内家本菩提寺の鎌倉明月院)

 

<畏れ多くもかしこまり>

古来、ひとが死を迎えることは哀しいことだが必然である。

いまの日本は平等という考え方が少々、歪んでいるようにも思えることが多い。つまり、ひとは生まれながらにして総ての人々は平等であり幸せになるべきであるという近代国家としての理想論を戦後70年以上にわたって広く教育の中で植え付けてきたことの綻びがあちこちに出てきているようにも感じることがある。ひとが生まれながらにして平等なのは、「いのち」くらいなのが真実なのである。なぜなら、誰もがいつか必ず死を迎えることは避けられない平等に訪れることだからだ。では、さらに総てにおいて平等であるとしたい理由は何か?平等ではないからである。例えば、生まれた家で経済も教育も生活スタイルも違う。兄弟や姉妹でさえ、同じようにびょうどうでだろうか?顔かたち、身長から始まって、総てが同じだなど古今東西、あり得ない現実なのである。

では、その不平等を社会という一定の枠組みの中でみると、いかにもアンフェアで不条理にみえる。そこを何とか平等という理想に近づけたいがために西欧諸国の近代思想に「平等論」なるものを登場させてきた背景がある。お金がなくても幸福を感じるひとや教育が受けられなくても立派な技術を持つひとなど様々な価値観で生きてきたのが日本人だった。開国直後に日本を旅した西洋人が一様に驚いたのは日本人の他意のない笑顔とそれぞれの置かれた立場での職能に対する誇りだった。たまたま、農民の家に生まれた。たまたま、大名の家に生まれた。それだけのことでしかないと、当時の日本人は誰から教えられるわけでもなく理解していた。つまり、ひととして平等なのは当然だと判っていたのである。

いまの日本。集団ヒステリーのように些末なことをSNSやTVで騒ぎ立て、「同じじゃなければ悪である」という風潮である。多様性、人権といいながら、少しでもマスメディアの意図的な報道に合致しない行動をするひとをみつけると、寄ってたかって言葉の暴力で徹底的に引きずり下ろす。一応、法治国家としての手続きをふまえて就任した総理大臣が暗殺されても暗殺した犯罪者の境遇のほうが殺人をしても許されるような雰囲気を作り上げていることは異常ではないだろうか?いつから日本人は死者への敬意を忘れてしまったのか。昔から、戦で死んだ敵であっても一旦、いのちを失うという平等な出来事には敵味方なく弔うのが日本人のもっていた感性だった。

政治とか経済とか複雑な背景を横に置いても「ひとの死は平等」「仏になったひとは皆で静かに見送る」、こんな穏やかで平等な日本人のこころを取り戻してもらいあたものである。亡くなったひとを皆で蹴り上げるという感覚は私たちには似合わないのである。